【新着講師紹介】橘田貴充先生:恩師に支えられながら、11年間戦い抜き合格!

LEAPに登録している講師の魅力をお教えする本企画。第4弾は、第70期司法修習生の橘田貴充さん。働きながら、予備試験を勝ち取ったが、その道は決して平易ではなかった。新司法試験を5回受験、11年間半という途方もないような時間を司法試験に費やした橘田先生の粘り強さ、そして諦めなかったその真意をインタビューさせて頂いた。

当事者として法律に向き合ってきた10年間


Q. そもそも、法曹を目指したきっかけを何だったのでしょうか

 法曹を目指したきっかけは、経営者でもあった父の自殺にあります。1999年大学在学当時、父を自殺という形で失った私は、残された家族を守るため、その後10年間様々な法律問題を当事者として解決してきました。そのような中で、海外案件を手伝っていただいていた国際弁護士から勧められたのが法曹の道です。紛争の当事者として経験した痛み・苦しみは必ずや法曹として役立つだろうし、その経験を社会貢献に活かすべきとのことでした。当事者として事件を解決していく中で私が強く思ったのは、当事者の気持ちを顧みない法律家が非常に多いとの思いでした。そこで、当事者の気持ちをも踏まえたうえで、当事者に納得してもらえる法的サービスを提供できるような良き法律家になりたい。こういった思いが法曹を決意した経緯ですね。

橘田先生の勉強机


Q. 最初はどのような勉強から始めたのでしょうか

 ロースクール(LS)創成期でもあったため、最初はLSで勉強を始めることにしました。LSでは、実務家登用試験であるにもかかわらず、条文が使えるようになるための指導は殆どされず、基本書・判例・学術論文をとにかく繰り返し読むというような学習指導がなされていましたね。今思えば無茶苦茶な話なのですが、当時はどのLSも混迷期にあったせいか、このような指導は他のLSでもなされていたと思います。しかし、こんな勉強の仕方で試験が出来るようになるわけもなく、LS修了後の最初の司法試験の結果は短答不合格、翌年の結果も短答不合格、しかも結果は合格基準点を10点も下回るものでした。つまり、4年間も法律の勉強を毎日していたにもかかわらず、短答すら合格できない上に、次の1回で受験資格喪失という状況です。正直、何が悪かったのかもわからず、どのように勉強してよいのかもわからない自信喪失状態だったと思います。そんな状況を救ってくれたのが、二人の恩師との出会いです。


自信喪失真っ只中で出会った2人の恩師。その2人と3年間の修行を積む


Q. そんな自信喪失期を抜け出したのはいつ頃だったのでしょうか?

 2回目の受験失敗後まもなくだったと思いますが、通っていた予備校で出会った2人の恩師のおかげで自身の倦怠期を突き破り、一気に勉強を加速することができました。

 1人目の恩師は、古川直裕先生。出会った瞬間に、「凄い天才を見つけた。どうしてもこの人から学び取りたい」と衝撃を受けた私は、古川先生と少しでも時間を共有するため、飲みに行くなど積極的にアプローチしました。その甲斐あってか、勉強の時間だけでなく、寝食の「寝」以外の時間は古川先生と共にできるくらい仲良くなりましたね。古川先生からは、一緒に過ごす時間の中で、徹底的に思考力を鍛えられました。具体的には、言葉の一つ一つをこれでもかというほど深く掘り下げ、かつ論理的に詰めて考える練習です。例えば、事案を検討する際には、「利益」「危険」などの概念だけでなく、その具体的内容をさらに検討します。また、法律概念に限らず「鍋」の意義から「立ち食いそば屋のセット」の意義まで、法律と関係ない概念も深く検討しました。正直、最初は「試験に関係ないのに、何でこんなことを・・・」などと考えていましたが、このような特訓をすることにより思考力が自然と身についていきましたね。

 2人目の恩師は、荒木雅晃先生。荒木先生からは条文を使って事案を処理するという実務家としての基本技術を教えていただきました。出会った当時、条文を使って事件を処理するという基本が身についていなかったので、荒木先生からは民法百選Ⅰ-1、宇奈月温泉事件をひたすらやらされました。具体的には、「実務家として考えてこい」という課題が出され、約2ヶ月半もの間、同じ事件を繰り返し処理させられました。隔週で課題をチェックされるのですが、最初の頃は何回やっても「これじゃダメだ」と言われるのみで、ろくなヒントも貰えませんでしたね。でも、とにかく駄目だといわれたところを自分なりに考えては起案して提出する、そんなことを繰り返しやっていました。正直、1回の指導料が1万円だったので「ふざけんな」とは思いましたが辞めようとは思いませんでしたね、それくらい魅力のある先生でした。そんなドMな指導でも必死に食らいつき、1つの事件をこれでもかというほど深く検討し、荒木先生から「もう指摘することはない」という言葉が出るくらいまでやりました。その猛特訓の結果、「事実→条文→文言→規範(要件・効果・適用範囲)→根拠→基準→評価・あてはめ→反論・対立点」といった一連の事件処理の流れを、事案ごとに条文を使ってある程度処理できるようになりました。

 この両先生との猛特訓は3年続きました。しかし、結局3年の修行では間に合わなかったんですね。2012年、最後の3回目の受験では、短答は初めて通ったものの論文で落ちてしまいました。当時は、司法試験の受験回数制限は3回だったので、これにより受験資格を失うことになります。一旦曲がった勉強をしてしまうと、正しい道に戻るまでに莫大な労力と時間がかかってしまう、それを痛感したのを今でも覚えています。2回目の自信喪失状態ですね。


“諦めかけたときに、よぎった支えてくれた人たちの顔”



Q. それは、諦めたくなるタイミングでもありますね。どうやって乗り越えたのでしょうか。

 受験資格を失った私は、司法試験を諦めようとしました。やっていた事業とは別の仕事につくため、ハローワークにも通いました。だって、もう一度受験資格を得ようとしたら、LSに入り直すか予備試験という過酷な道しかないんですから。しかし、本気で諦めかけたとき、寄り添ってくれた恩師や友人、家族の顔がよぎるんですよ。確かに、7年間もの間、金・時間・労力をかけたのは自分ですが、その間本当に色々な方にお世話になってるんですよ。それが、「はい駄目でした、さようなら」と、そんなことを本当に言えるのかと。そこで、古川先生に進路相談したところ、理由なき撤退の愚かさを説かれました。つまり、お前はまだ続けれるチャンスがあるにもかかわらず、もう嫌だ辛いから辞めたいだけではないかと。辞めてどうするんだと。撤退するのであれば、次の挽回の一手を確立してから撤退するべきであり、撤退してから考えようなどという事は愚策の極みであると。また、荒木先生からは「お前への指導はほぼ終了している、受験資格であれば予備試験でもLSでもお前ならどのルートでも受かる、年齢なんか気にするな、やれ」との激励をいただきました。そこで、再度司法試験に挑戦することになります。今思えば私が人生の岐路に立った時、本当に様々な人が私を応援してくださっていた、改めてそのことを感じます。


学習環境を整備しよう、との思いで2度目のロースクール入学


Q. 再挑戦の司法試験、どのような勉強から始めたのでしょうか

 再挑戦するにしても学習環境を整える必要があったため、まずはLSに入ることにしました。LSについては、金銭的余裕も無かったため、特待生として合格したLSのうち、年間48万円の現金給付までしてもらえる東洋大学法科大学院に入学することにしました。LSを受験し始めた当初は、本当に再挑戦してもいいものかと悩んだこともありました。しかし、この時受験したLSが殆ど特待生合格だったので、相当自信になりましたね。今までの勉強は無駄ではなかったのだと。また、司法試験のための予行演習として予備試験も受けることにしました。合格なんて出来るとは思っていませんでしたが、本番に一番近い受験の機会は絶対プラスになると思っていましたから。


一年発起して受験した予備試験。3年間積んだ修行の成果を存分に発揮!



Q. 具体的には、どのような勉強を始めたのでしょうか

 まず、短答式試験の勉強についてですが、荒木先生から「予備試験では短答の結果が論文の結果と合算されないため、高得点を狙う必要がない」とのアドバイスを受けていたので、過去問を一回分だけ解きました。また、一般教養科目についても、法律科目で圧倒すればよいとのアドバイスを受けていたので、対策は一切せず、本番でもできそうな問題を選んで解いていました。結果、短答は無事合格。一般教養科目は平均点以下でしたが、トータルでは合格者平均を超えていたため、狙い通りだったといえます。

 次に、論文式試験の勉強についてですが、論文対策については、古川先生から過去問検討が重要であるとのアドバイスを受けていたので、荒木先生の論文過去問検討講座を受講していました。司法試験と異なり、予備試験では出題傾向が若干異なりますし、複数の科目を同一時間で解くといった予備試験独特の出題形式に慣れるためです。また、座学のみでは不十分と考え、荒木先生による個人指導も併せて受講してました。一人で勉強していると、実務家登用試験である司法試験と関係のない学術的勉強をしてしまうクセがあったため、試験と関係のない勉強を防ぐためです。結果は、憲F行E民A民訴B商C刑A刑訴E教養E実基Aの355位でした。Fが一つあるにもかかわらずギリギリ合格できたのは、Aの中に特A答案となるものが幾つか入っていたからだと思います。出願者11,255人の中でここまで勝ち残るとは正直思っていませんでしたが、勝負になるレベルにまで自分の能力が上がっていたことを実感しましたね。

 最後に、口述式試験についてですが、口述対策をしたくても試験に関する情報が全くなかったため、まずは予備校の口述対策ガイダンスを受けて情報を収集しました。また、口述式試験という未知の試験に慣れるため、口述模試も複数受けました。さらに、私は東洋大学法科大学院にも在籍していたので、旧司の元口述試験委員の教授から指導を受けました。その際のポイントとしては、①口述といっても試験である以上は客観的採点基準がある。そして、それは4つ程度のストーリーに分けられており、試験時間内に最後までたどり着けばまず合格であること、②4つのストーリーにはそれぞれキーワードが用意されているため、そのキーワードを自分の口から言えれば減点されないこと、③間違えたことを言っても撤回は自由であり、どれだけ誘導されようが最終的に受験生の口から答えられれば減点されないことです。募集員を停止してしまいましたが、東洋大学法科大学院のように、学生に寄り添って真摯に教育をしてくれるようなLSであれば、このような協力も得られると思います。最終的には、290位で予備試験に合格しました。周りも相当驚きましたが、私も驚きました(笑)。


予備試験に無事合格し、司法試験最終合格が目の前に見えたところでの不合格…


Q. 予備試験に合格しちゃえば、あとは早かったのでしょうか?

 そんなうまくは行きませんよ(笑)。「よっしゃ、待ってろ司法試験!!」と言いたかったとこですが、当時の法律では受験資格喪失後2年間はいかなる受験資格を有していても受験できないとの規定があったため、2015年まで受験を待つことになります。

 しかし、これが更なる問題を生じさせることになりました。指導者であった荒木先生が癌により急逝されたため、実務家登用試験である司法試験と関係のない学術的勉強をしてしまう悪いクセが再発したんです。LSで興味のある論文や学説ばかり研究してしまい、どんどん司法試験からズレていきましたね。当然、こんな勉強をしていて試験が出来るようになるはずもなく、2015年の司法試験は不合格となります。3回目の自信喪失状態ですね。正直、もう大丈夫だろうといった油断と慢心はかなりありました。

3回目の自信喪失期、不合格という結果を見つめ直し、自己分析を開始


Q. 3回目の自信喪失期、どのように乗り越えられたのでしょうか?

 荒木先生という指導者を失った私は自分で自分の欠点に気付き修正しなければなりませんでした。そのため、まずは再現答案を起案し、LSの教授や友人の弁護士に片っ端から添削を依頼しました。また、LSのゼミや答練も受けるようにし、避けがちであった起案練習も積極的にやりました。そこで分かったのは、①司法試験の問題文を正確に読み取れておらず、聞かれていることが未だにわかっていないこと、②知識が劣化していたため正確な知識を整理して入れなおす必要があることでした。

 まずは①の欠点を克服するため、出題趣旨を読むよりも、試験の問題文を熟読する練習を行いました。教授達と問題文を一行づつ検討することにより、問題文の一行からなにがわかるかを徹底的に検討しました。これにより、問題文のみから、出題趣旨で聞かれていることを想起できるようになりました。

 ②の欠点を克服するため、司法試験で問われることを念頭に、基本書を時間の許す限り整理しなおしました。具体的には、司法試験で問われる可能性のある論点を、条文から丁寧に答案に表現できる形で整理しなおしました。これにより、起案する際の構成時間も短縮され、全国公開模試でもバランスよく得点できるようになりました。ここまでくると「司法試験ではそれほど難しいことは聞かれておらず、決められた範囲を整理し、それを覚えて条文から使いこなせるようになればいい、それだけかよ・・・」などと思うようになっていました。

 そして迎えた2016年の司法試験。11年半かかりましたが、これにようやく合格することができました。思えば11年もの間、自分を批判しては壊し、そこから新たに作り上げてはまた壊し、そして再度作り上げる、といった作業を何回もやり続けていたと思います。合格の瞬間、嬉しいという気持ちよりもホッとしたというのが正直な気持ちでした。


日本とタイの掛け渡しとして、プロの法律家を目指す



Q. 壮絶な受験勉強を経て勝ち取った司法試験合格。この後はどのようなキャリアに進む予定なのでしょうか。

 司法修習修了後は、タイと日本とのかけ橋となるような弁護士として活躍したいですね。私は世界中に友人がいるのですが、特にタイには多くの友人がいます。司法試験の直前も、友達の坊さんがいるタイの寺で瞑想の修行をしてたくらいですから。その為、タイ語も話せるようになり、タイ人のための手助けも幾つかしてきました。具体的には、日本国内での民事・刑事事件、日本への輸出、翻訳などです。そして、このような経験を経て、タイと日本の発展にもっと貢献したい、タイにはまだまだビジネスチャンスが転がっていると考えるようになりました。そこで、グローバル化の道半ばと思われる日本企業のタイへの進出・撤退の手助けや、タイ企業の日本進出・撤退の手助けはもちろんのこと、法人だけではなく在日タイ人、在タイ邦人など個人のためにも広くプロの法律家として活躍できればと考えています。

落ちることは、負けではない、諦めることが何よりも負けである

Q. 最後に、後輩に向けて一言お願いします

 私は、11年半も受験を続け、負け続けていた敗者です。それが、合格した途端このような場で勝因を問われる。実に不思議な気がします。でも、勝つか負けるかはその程度の評価にすぎないのではないでしょうか。周囲が勝ったと評価するまで続けていれば、負け続けていたとしても勝者として勝因を問われるということです。私が勝因として一つ上げるとすれば「勝つまで諦めない」ということです。試験が勝負事である以上、勝ち負けはあります。では、司法試験にとっての勝ち負けは何でしょうか。合格が勝ちだとすると、不合格が負けなのでしょうか。私はそうは思いません。勝ちが合格であったとしても、諦めることが負けだと思います。諦めるから負けるのです。不合格になったとしても、諦めずに勝負し続けている限り勝つチャンスはあるのですから、まだ負けてはいません。これから受験される方、受験され続けている方、合格する日までどうぞ諦めないで下さい。もっとも、経済的・家庭的事情で諦めるのならば仕方ありません。また、次の明確な目標があって諦めるのであればむしろ望ましいと思います。しかし、周囲の評価や、受験年数を理由に、もう嫌だから諦めるといった理由なき撤退は後々後悔を生じさせるでしょう。

 もちろん、諦めないための原動力も必要となりますよね。また、ただ続ければ受かるという試験ではありません。司法試験は頑張るだけでは受からない試験です。そこで、是非ご自分の周囲の力を借りてください。家族、恩師、先輩、同輩、後輩、LS・予備校などの教育機関、全ての元になっているのは人です。その人々に感謝し、その人々の力を借りてください。それが諦めないための原動力となり、合格をするための力となるはずです。恩師の一人である荒木先生は、私に個人指導をした三週間後に癌のため急逝なさいました。私に余計な心配をかけまいと、ご自身が末期癌である事を隠してまで指導してくださいました。私は最後の弟子として良き実務家にならなければならない。今思えば、諦めなかった一番の原動力であり、合格するための力を頂いた方であったと思います。LEAPは苦しくとも諦めずに合格を目指す。そのような方々に寄り添い、恩師と呼べるような先生を紹介する。そんな企業だと私は信じています。


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壮絶な受験勉強期間を経て、晴れて12月から司法修習が始まった橘田先生。修習の合間のお忙しい中お時間を作ってくださった。インタビューの帰り道、新品のスマホを片手に「この携帯、つい最近買ったんですよ。司法試験に受かるまでは、絶対にスマホは買わない、ガラケーで我慢すると決めていたもので」と、一言一言噛み締めながら言う彼を見て、その言葉の背景にある彼が戦い抜いた11年半を垣間見た。きっと、一人では戦い抜けなかった11年半。恩師に支えながら、粘り強く、執念深くやっと手にした合格。今度は橘田先生自身が誰かの恩師になる番だ。LEAPも、一人でも多くの生徒に、「恩師」と呼べるような先生の出会いを提供できるよう、今後も頑張って行きたい。


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